丹陽新羅赤城碑

文化遺産
丹陽新羅赤城碑 種目 国宝198号
分類 石碑
数量 1基
指定日 1979年 5月 22日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 丹城面 下坊里
時代 新羅·眞興王
城在山 ・赤城山城の内に位置した新羅時代の碑で、高句麗の領土 であった赤城を新羅が占領した後、民心を安定させるために建てたものである。1978年に30㎝程度が地中に埋もれたまま発見されたが、碑面がきれいで字がはっきりしている。碑は上が広くて厚く、下が 狭くて薄い。上部は削られてなくなったが、両側面 はほとんど原型のまま残っており、自然石を利用 したように形が自然である。全体の字数は440字程度に推定されるが、現在残 っている字は288字でほとんどが判読できる。文字は各行ごとに横列と縦列がよく整えられており、 隷書 から楷書へと移行する過程のリズミカルな筆法を見せているので、書道の研究にも良い資料になっている。碑文には新羅の 領土拡張 に助力し、忠誠を捧げた赤城人の手柄を褒賞すると同時に、将来、新羅に忠誠を尽す人にも同じ褒賞を行うという内容が書かれている。これを通じて新羅の刑罰および行政に関する法規である 律令制度の発達について新しい事実が明らかになったが、労役制度 、財産分配に関する国法が真興王の初頭に用意されたことと、赤城地方に限られた慣習を法として一般化している事実などがそれである。碑文の書き出しに言及されている10人の高官の官等と『三国史記』の内容を比べてみると、碑の建立は真興王6〜11年(545〜550)の間であると見られる。北方攻略の 戦略的要衝地である赤城地域にこの碑を建てたのは、新しい領土 に対する確認とともに新しく服属した高句麗人たちを吸収しようとした国家の意志を表現したからである。たとえ巡狩碑(王が直接巡行して民政を察した記念として建てる碑)ではないとしても、巡狩碑の精神を込めている 拓境碑(領土の編入を記念して建てた碑)という点から大きな価値を持つ。

香山寺三層石塔

文化遺産
香山寺三層石塔 種目 宝物405号
分類 石塔
数量 1基
指定日 1964年 9月 3日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 佳谷面 香山里
時代 統一新羅時代
丹陽邑 の古藪(ゴス)大橋から北東の方へ11キロ離れた所に立 っている塔である。本来、周辺は畑であったが、水害による移住のため今は民家が建っている。石塔の周辺に磁器の 欠片 と瓦が散らばっていることから、ここが寺跡であったことが分かるが、寺の跡は見つかっていない。1935年頃、塔の中の舎利が盗まれた時に崩れてしまった塔を、村の住民たちが建て直したという。 この塔は2段の基壇の上に3層の塔身を立 てた形である。基壇は何枚もの長くて大きい石を底に置いてからその上に積んだ形で、各角と 各面の中央に柱の形をした彫刻が彫られてある。塔身部 は胴石と屋根の石がそれぞれ一つの石になっている。胴石にも角ごとに柱の形をした彫刻があり、 特 に1階の胴石には扉の形をした彫刻があって目を引く。 屋根の石は底面の台数が階ごとに4段で、屋根の石の上には2段の台石を置いた。軒の下はまっすぐで、屋根の石の上面の傾斜も穏やかなので四角の線がはっきりと現われている。最上部の頭飾りとしては 露盤(頭飾り台)と覆鉢(伏せておいた器模様の飾り)、仰花(尖った蓮華模様 の飾り)、宝珠(蓮華 のつぼみ模様の飾り)が残っている。石塔の形態が優れて、比例も充実であり、彫刻の手法も統一新羅時代の石塔様式に忠実に従っている。端整な塔の造形を見せてくれる美しい作品で、統一新羅後期に建てられたものと推測される。

温達山城

文化遺産
温達山城 種目 史跡264号
分類 城跡(城郭)
面積 26,354㎡
指定日 1979年 7月 26日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 永春面 下里
時代 新羅時代
史跡264号の温達山城は、永春面下里 の南漢江のほとりにある城山(ソンサン)に築城された山城である。長さ972m、高さ3mの半月型の石城で、原型が比較的よく保存されている。温達山城は 領土拡張競争が激しかった三国時代に、漢江を取 るために高句麗と新羅が熾烈な戦闘をした所で、高句麗・平原王 の壻である温達(オンダル)将軍の武勇談と共に平岡(ピョンガン)王女との恋 の物語が伝わっている。城の内には三国時代の遺物が出土され、井戸の跡が残っており、城壁の外部には梯子模様の排水口がある。南西の門跡の形式とこの門の突出部は、韓国の古代城郭においては珍しい様式なので、注目するに値する。城の北東にある南漢江のほとりの絶壁の下には 温達窟という石灰岩の洞窟があり、城を眺める北側の川向 こうの山にも温達と関係のある伝説が伝わっている。城壁の保存状態が良くて築城法 を研究するのに重要な遺跡である。城の下には温達洞窟とともに温達観光地が造成されている。

丹陽新羅(山城)

文化遺産
丹陽新羅(山城) 種目 史跡265号
分類 城跡(城郭)
面積 88,648㎡
指定日 1979年 7月 26日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 丹城面 下坊里
時代 新羅·眞興王
丹陽・城在山(ソンジェサン)にある石を積み上げて造った山城である。周囲が約900mであるが、ほとんどが崩壊し、北東に内外に積み重ねた部分の内側の城壁が 一部残っている。城の南西、南、東南の3ヶ所に、門があったと推定される城壁の切断部 がある。北は南漢江と険しい絶壁という自然の地理的条件を最大限に利用 している。1978年、城の内から赤城碑 が発見されたが、これを通じて新羅と高句麗の勢力関係の変動が分かる。碑石の外に、三国時代の土器の 欠片 と瓦の欠片も発見されており、高麗時代の遺物もあるので、おおよそ高麗後期まで今日の丹陽地方を治める 邑城 の役目を果たしていたと見られている。築城方法が非常に堅固なので、新羅の築城技術を研究するのに重要な資料として評価されている。

スヤンゲ先史遺跡地

文化遺産
スヤンゲ先史遺跡地 種目 史跡398号
分類 先史遺跡
面積 110,842㎡
指定日 1997年 10月 10日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 赤城面 艾谷里
時代 先史時代
丹陽赤城面 のスヤンゲにある、後期旧石器時代から初期鉄器時代にかけての遺跡である。南漢江のほとりの沖積地帯に位置しており、川を 挟 んでいる周囲の環境が先史時代の人々が住むのに適当な所である。発見された石器は様々で、当時の製造技術もその特徴を見せている。 特に、後期旧石器時代に見られる石核 と柄をはめるように刀心が付いた尖頭器は、中国の華北地方、シベリアの南部地方、 日本列島 の後期旧石器時代遺跡から出た石器と比較できる良い研究資料になっている。旧石器時代の遺跡の周辺から初期鉄器時代の住居の跡地が発見されたが、住居の跡地の形が 独特 の形をしているので、中原地域の鉄器時代の生活ぶりを研究するのに重要な資料になっている。スヤンゲ遺跡は韓国の先史文化と、東アジアの先史文化の交流を明らかにするのに良い資料である。

令泉里のコノテガシワ樹林

文化遺産
令泉里のコノテガシワ樹林 種目 天然記念物62号
分類 自生地
面積 54,347㎡
指定日 1962年 12月 3日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 梅浦邑 令泉里
コノテガシワは中国および韓国に分布しており、韓国では丹陽、達成、安東、英陽などで育っている。絶壁の岩の間に 根付いて森を成す場合が多く、周辺環境を美しくするために住宅 と村の周辺に多く植えられている。令泉里 のコノテガシワ樹林は丹陽から提川に至る国道沿いにあり、高さ100mあまりの石灰岩地帯にある。木の高さは1〜2m程度に点々と生えており、周辺にはっきりした森が構成されていなので、外からはコノテガシワだけあるように見えるが、ユキヤナギなど石灰岩地帯で主に育つ木も発見されている。 令泉里 のコノテガシワ樹林は、コノテガシワが石灰岩地帯でよく育つことを見せてくれる標本になっている。韓国にわずかしかないコノテガシワ自生地が丹陽、達成、安東、英陽など互いに離れたところに小さな集団を作って育っているのは、 植物群落学上 、または集団遺伝学上に研究価値が非常に高いので、天然記念物に指定、保護されている。

小白山のイチイ群落

文化遺産
小白山のイチイ群落 種目 天然記念物244号
分類 自生地
面積 329,310㎡
指定日 1973年 6月 20日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 佳谷面 於衣谷里
イチイは韓国、日本、満洲、ウスリー、旧ソ連 などに分布している。韓国では小白山、太白山、五台山 、雪岳山など高い山岳地帯や寒い地方で主に育ち、木の形が美しいので庭木としてよく使われる。小白山のイチイ群落は 毘廬峰(ビロボン)の頂上部 から西の方へ約100本の古いイチイが集まって育っており、木の幹がねじれ小枝は上下に屈曲を作って不思議な形をしている。大部分の木の高さは7m程度で、周囲は一定ではないが2m程度から下の方へと枝が四方に伸びている。これは強い風と雪のためであるようだ。周辺には桜、オオハシバミ、ミズナラなどが育っており、 稜線 の近くには韓国の特産種であるモデミ草の集団がある。小白山のイチイ群落は韓国の代表的なイチイ群落地として、 生物学的保存価値が高いので、天然記念物に指定、保護されている。

古薮洞窟

文化遺産
古薮洞窟 種目 天然記念物256号
分類 洞窟
面積 60,199㎡
指定日 1976年 9月 1日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 丹陽邑 古藪里
時代 古生代
丹陽古薮里洞窟は、丹陽邑金谷川(グ厶ゴクチョン)のほとりにある。全長は1,200mであるが、現在、公開して観光コースとして 利用している区間は600mであり、奥の残りの地域は洞窟の環境を保存するために立 ち入りを禁止している。洞窟の内部には洞窟の守護神とも言える獅子岩(サザバウィ)をはじめ、雄壮な瀑布をなす鐘乳石、 仙女湯(ソンニョタン)と呼ばれる水たまり、長さ7mの氷柱 のような鐘乳石、地から突き出された石筍、石筍と鐘乳石が合って柱を成した石柱などが多い。その他に、天然の橋、曲がった岩石、花の形をしている岩石、洞窟珊瑚、洞窟真珠など 稀な岩石も多い。丹陽古薮里洞窟は、古生代の石灰岩層で造られた石灰洞窟で、その 学術的価値 が高く、様々な洞窟の生成物をひと目で見られるので、天然記念物に指定、保護されている。

温逹洞窟

文化遺産
温逹洞窟 種目 天然記念物261号
分類 洞窟
面積 349,485㎡
指定日 1979年 6月 18日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 丹城面 下里
時代 古生代
温逹洞窟は、昔、温逹(オンダル)将軍が築いたという温逹城 の下にあるので付けられた名前である。洞窟の全長は700mで、淡い灰色の石灰岩からなっている。洞窟の入り口が南漢江のほとりにあるので、川の水位が高くなると洞窟が水に浸って、洞窟に住む生物は見つからない。川の水が洞窟の内部を削って 比較的単調 な形をしており、洞窟の中から水が絶えず流れてきて、洞窟の水たまりに住む様々な生物の生態は見られない。しかし、地から突き出された石筍があちこちにたくさんある。温逹洞窟は地形の景観が美しく、 地質学的研究資料としての価値が高いので、天然記念物に指定、保護されている。

蘆洞洞窟

文化遺産
蘆洞洞窟 種目 天然記念物262号
分類 洞窟
面積 314,077㎡
指定日 1979年 6月 18日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 丹陽邑 蘆洞里
時代 古生代
蘆洞洞窟 は南漢江の流れが忠州湖の北の方へ流れていく蘆洞川(ノドンチョン)の近くにあり、洞窟の全長は約800mである。洞窟は石灰岩からなっており、洞窟の中は急傾斜である。洞窟の中には 氷柱 のような鐘乳石と地から突き出された石筍、鐘乳石と石筍が合って柱を成した石柱など、洞窟の生成物がよく発達している。洞窟の中間の 垂直壁の下には土器の欠片が散らばっているが、これは壬辰の乱(1592、文禄 ・慶長の役)の当時に、住民達がここに避難した跡だと言う。蘆洞洞窟 は洞窟の内に様々地形地物ができており、鍾乳瀑布、石柱、石筍など2次生成物 がよく発達しているので、地質学的研究資料 としての価値が高く、洞窟の景観が美しいので、天然記念物に指定、保護されている。

趙子衡家屋

文化遺産
趙子衡家屋 種目 重要民俗財145号
分類 家屋
指定日 1984年 1月 10日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 佳谷面 德泉里
時代 朝鮮·英祖
南漢江の流れを挟んで深い山奥に位置している19世紀中葉の建物である。ㄱ字形 の母屋とㄴ字形の門脇屋が開いたㅁ字形になっている民家形式の家である。ㄱ字形 の母屋は、19世紀中葉頃に建てられたと見られる優れた建物である。廣い板の間の前に 縁側があり、台所 と内室の後ろに縁側を設置した。平面は中部内陸地方の形式で構成されている。西南の方に 台所2間と後ろに2間の内室があり、ここを曲がって2間の廣い板の間と小さい部屋 が配置されている。台所 の南側には炊き口に近い部屋が付いているが、これは南道方式の一つである。小さい部屋 の前の土間には炊き口が設置されている。門脇屋は元々一字形であったが、のちに部屋 を作ってㄱ字形の家に変わったと見られる。構成は右側から倉庫、馬屋 、大門間(正門の内側の空間)、正門脇の部屋があり、中の方に曲がって2間の門脇 の部屋がある。ここは大門間が東北向きで、母屋の板の間が東南向きをしていて、一般的な家とは違って、 門脇屋の大門間が後ろ向きになっている配置をしている。また、家屋の構成が開いたㅁ字形 から離れてはいるが、母屋をㄱ字形 で構成した家がこの地域にあるということから価値を認めるに値する。

羽化橋記事碑

文化遺産
羽化橋記事碑 種目 忠清北道有形文化財80号
分類 石碑
数量 1基
指定日 1981年 5月 1日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 丹城面 下坊里
「羽化橋記事碑」は、朝鮮英祖29年(1753)、丹陽郡守であったイ・ギジュンが 丹陽川(ダンヤンチョン)に石橋を造った後、それを記念して翌年の英祖30年に建てた碑である。橋は「 羽化橋(ウファギョ)」と名付けたが、大洪水によって壊 れ、現在はこの碑だけが残っている。碑は四角い台の上に長めな長方形の形で建てられている。碑文には橋を設置する時に参加した人達と木工、土工、石工の名前が刻まれており、碑文は 当時永春県監として在職していた隷書の大家であるナム・ヨンウン先生が書いた。

濯吾台岩刻字

文化遺産
濯吾台岩刻字 種目 忠清北道有形文化財81号
分類 石造その地
数量 1基
指定日 1981年 5月 1日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 丹城面 下坊里
自然の岩石に「濯吾台(タクオデ)」という字を隷書体 で刻んだものである。朝鮮明宗の時、丹陽郡守であった退渓・李滉(イファン)は、国事に苦しんだ身と心の疲れを 取ろうと毎日ここに来て手足を洗ったと言う。李滉 はここが人の心まできれいにさせてくれるという意味で濯吾台と名付け、直接ここに字を刻んだ。

復道別業岩刻字

文化遺産
復道別業岩刻字 種目 忠清北道有形文化財82号
分類 石造その地
数量 1基
指定日 1981年 5月 1日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 丹城面 下坊里
自然の岩石に「復道別業(ボクドビョルオブ)」という字を刻んだもので、朝鮮明宗の時、丹陽郡守であった 退渓・李滉(イファン)の親筆であると伝わっている。ここの復道沼(ボクドソ)は、 李滉 が丹陽郡守であった時、田畑に水を入れるために作った貯水池である。水が清くてきれいで、景色が良いだけでなく、入浴をすると身と心まできれいになるほどすばらしいと 李滉がここにある岩に「道理を回復する別荘」という意味で刻んだと言われている。

永春郷校

文化遺産
永春郷校 種目 忠清北道有形文化財106号
分類 郷校
指定日 1981年 12月 26日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 永春面 上里
郷校は立派 な儒者の祭祀をあげ、地方の住民の儒学教育と教化のために国が建てた教育機関である。朝鮮定宗1年(1399)に建てられた永春郷校は、壬辰の乱(1592、 文禄・慶長の役)の時に焼失した。光海君6年(1614)に南川里に移建したが、火事 で正祖15年(1791)に現在の位置に移した。その後、何回もの修理を経て今日に至る。 現在残っている建物は、大成殿・明倫堂・東斎・西斎・校直舍 などがある。大成殿は孔子をはじめ、多くの聖賢たちの位牌を安置して祭祀をあげる所であり、明倫堂は学生たちが 勉強 した講堂である。ここの建物の配置は、明倫堂と大成殿が上下に配置されている他の所とは違い、明倫堂が大成殿の右側の前に位置した珍しい形を見せている。朝鮮時代には国から土地・奴婢・本などを支援されて学生たちを教えたが、甲午改革(1894)の以後は 教育的機能を失い、春秋の2回にわたって祭祀だけをあげる。

丹陽郷校

文化遺産
丹陽郷校 種目 忠清北道有形文化財107号
分類 郷校
指定日 1981年 12月 26日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 丹城面 上坊里
郷校は立派 な儒者の祭祀をあげ、地方の住民の儒学教育と教化のために国が建てた教育機関である。太祖15年(1415)に建てられた丹陽郷校は、明宗(在位1545〜1567)初期、 李滉が郡守であった時に今の所に移した。英祖(在位1724〜1776)の時、二回建 て直し、その後にも何回も修理した。現在残 っている建物は、大成殿・東廡・西廡・明倫堂・東斎などと付属建物である。內三門 を境界に、前は明倫堂を中心とする学問の空間を置き、後ろは大成殿を中心とする祭祀の空間を置いているので、郷校の一般的な配置である 前学後廟 に従っている。朝鮮時代には国から土地・奴婢・本などを支援されて学生たちを教えたが、甲午改革(1894)の以後は 教育的機能を失い、現在は春秋に祭祀だけをあげる。

泉洞洞窟

文化遺産
泉洞洞窟 種目 忠清北道記念物19号
分類 洞窟
指定日 1977年 12月 6日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 丹陽邑 泉洞里
丹陽泉洞窟 は暗い灰色を帯びた石灰岩からなっている洞窟で、全長は200mである。今から約4億5千万年前 に造られた。洞窟は入り口が狭 いので、這って入らなければならず、半月模様の空間の中には氷柱 のような鐘乳石と、洞窟の底から突き出された石筍、そして鐘乳石と石筍が合って柱を成した石柱がひろがっている。縦に 地中奥深 くまで続く洞穴が一つあるが、ここには石筍が多い。また、清い地下水が溜まった3つの水たまりの中には、丸い 葡萄粒 のような葡萄状の球状体があり、花盆(コッジェンバン)と呼ばれる石灰岩でできた岩は、世界的にも 稀な生成物である。洞窟の天井いっぱいの氷柱 と、廣く広がっている石のしわ、そして細い鐘乳石が非常に精巧で繊細である。

グムグル旧石器遺跡

文化遺産
グムグル旧石器遺跡 種目 忠清北道記念物102号
分類 遺跡
面積 一帯(4,348㎡)
指定日 1994年 12月 30日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 丹陽邑 島潭里
韓国における最も古い旧石器時代の文化遺跡で、前期旧石器から青銅器時代に至るあらゆる時期の 遺物層が発見され、各文化層 の性格が分かる。1980年の忠州ダム建設による水沒地域で実施された文化遺跡指標調査で、旧石器時代の洞窟遺跡であることが確認された。その以来、3回にわたった発掘調査の結果、旧石器時代から青銅器時代までのいくつかの時期にかけて文化が形成されたことが明らかになり、出土された遺物を通じて旧石器時代の文化が中心になっていることが分かった。洞窟の規模は入り口の高さ8m、広さ7〜10mであり、確認された洞窟の長さは85mである。先史時代の 文化層 が順番に全部現われる珍しい例の洞窟で、当時の人々が多くの時期にわたって生活した跡がよく現れている遺跡である。

九郞旧石器遺跡

文化遺産
九郞旧石器遺跡 種目 忠清北道記念物103号
分類 遺跡
面積 一帯(5,600㎡)
指定日 1994年 12月 30日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 佳谷面 麗川里
九郞窟遺跡 は旧石器時代の洞窟遺跡で、韓国では非常に珍しく洞窟の外形と内部がほとんど完全に保存されている遺跡である。1986年から3回にわたって行われた発掘調査により、全8層で構成された旧石器時代の遺跡であると確認された。 特に、第3層からは多くの遺物と動物の化石が集中して発見されたので、ここが主な 文化層 であったことが分かる。洞窟の入り口は南東向きになっており、規模は入り口の幅5.5m、全長140mで、大きい方である。ここからは、男の大人の 足首の骨、足の甲の骨、足の指の骨が発見され、マカク、タイワンジカ、熊 、虎などの動物の化石と、掻器、刻器などの石器が発見された。ここから発見された動物の骨には人為的に刺した跡、切った跡が確認されているので、当時の人々が動物を殺して切った方法がよく分かる。

角基里立石

文化遺産
角基里立石 種目 忠清北道記念物127号
分類 支石墓(不勤産)
指定日 2002年 10月 25日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 赤城面 角基里
時代 先史時代
ソンドルとも呼ばれている立石は、ドルメンと共に青銅器時代に住んでいた人々の生活ぶりが分かる遺物である。一般的に大地に一つあるいはいくつかの大きい石柱を立てた形をしているが、当時部族間の境界表示、または信仰の対象になる記念碑の性格を持っている。角基里立石は角基里の上り口に互いに違う形をした2基の立石が対になって立てられている。角基里という名は村の前の二つの岩が、まるで角のように突き出ているといって「角基里(ガッギリ)」と付けられたと言う。1号の立石は全体的に三角形のように先が尖っている形をしているので「雄岩(スッバウィ)」と呼ばれ、2号の立石は小さくて厚さが均等で上面が丸い形をしているので「雌岩(アムバウィ)」と呼ばれる。1・2号の立石には全部、前面に掘って磨いた手法で造った「性血」が多数確認されており、性血の大きさは直径2.0〜12㎝で様々である。特に、1号の立石の周りに楕円形の段があることから、祭儀に係わる行為があったと推定される。角基里立石ははっきりした性別の区分と、これに係わる形態的な特徴をよく取り揃えており、様々な大きさの性血があるなど、立石の典型的な形態を見せており、その保存状態が非常に良好で巨石文化の研究に重要な資料であると判断される。

竹嶺山神堂

文化遺産
竹嶺山神堂 種目 忠清北道民俗資枓3号
明称 竹嶺山神堂
分類 信仰資枓
数量 1棟
指定日 1976年 12月 21日
所在地 忠淸北道 丹陽郡 大崗面 龍夫院里
山神堂は韓国の土俗神 である山神、すなわち山神霊を祭る所で、村と寺を守護する機能を持つ。龍夫院里 の山の中腹に位置した、この山神堂の内部には「竹嶺山神之位」と書いた位牌を祭っている。竹嶺山神を祭る所で、村では竹嶺山神を「ダザグお婆さん」と呼んでおり、この建物も「ダザグお婆さんの堂」と呼んでいる。ダザグお婆さんを竹嶺山神として祭ったには次のような話が伝わる。昔、ここは山賊が 日夜現 われて百姓をいじめたが、山が険しくて官軍も山賊を討伐するのに大変だった。この時、あるお婆さんが現われ、山賊の巣窟に入って山賊が寝ていたら「ダザグヤ」と 叫び、山賊が起きていたら「ドルザグヤ」と叫 ぶという計画を官軍と立てた。山賊の頭目の誕生日の夜、酒に酔 って山賊が皆寝込むと、お婆さんが「ダザグヤ」と叫び、この音を聞いた官軍が山賊を 全部掃討 することができた。国はこのお婆さんの功績を称えるために祠堂を建て、初めは国家が春秋に祭祀を執り行ない、朝鮮時代は 竹嶺寺 という祠堂を建てて官が直接祭祀を執り行なった。現在は祭祀の規模が大きく縮小され、村が毎年3月と9月に村の福を祈る祭祀を執り行なう。神堂の 建立年代 は正確に分からないが、1948年3月8日に住民の寄付で改築された。祭祀の規模は縮小されたが、今も住民たちの間には竹嶺山神堂に対する信仰が深く残っている。